ルイス森田の備忘録

このブログはアウトプットが死ぬほど苦手な森田の強制&矯正装置としてゆるっとはじまったブログです。

ダ・ヴィンチとサカナクション山口一郎さん

以前、レオナルド・ダ・ヴィンチを特集したETVの番組でサカナクション山口一郎さんが「ライスワーク」と「ライフワーク」の話をしていた。

ダ・ヴィンチですら、パトロンだった都市国家が戦争で負けたので放浪、「食うため=ライスワーク」の絵を描いていた時期があるという。
お金をもらうためにクライアントである都市国家の女王の要望に応えるための絵を描いていた。
(結果、お金だけ貰って下絵で頓挫し完成はしなかったそうだ。)

 


一方、ダ・ヴィンチは自身の生涯を捧げて3枚の絵を描いていたそうだ。
その3枚のうちの1枚は「モナ・リザ」(これも結局、未完のままこの世を去ってしまった。)
「生涯を捧げて行うこと=ライフワーク」が「モナ・リザ」で、それは歴史に残るマスターピースとして、死後の世界でも称賛され続けている。

山口一郎さんはダヴィンチの紹介VTRのあとに以下のような話をしていた。
まず完璧主義者だと思っていたダ・ヴィンチが未完の作品ばかりであったことに驚き、自身の作詞のこだわりのために納期が遅れてしまうことと重ねていた。そして作品とはいわば自身の一部であり、一度世に出せばそれは一生つきまとうということ。

 
ダ・ヴィンチも山口一郎さんも自身の「ライフワーク」を自分に宿すことが出来た人たちだ、というのが森田の感想だった。

第一に自身の「ライフワーク」があること、それ自体が死ぬほど羨ましいことである思った。
第二に「ライフワーク」が宿せてない森田にとって「ライフワーク」は幻でしかないこと
第三にその森田がやれることは自分に与えられた「ライスワーク」を大切に一生懸命全うすることしかないということ

「ライフワーク」が宿せていない森田からすれば、ダ・ヴィンチも山口一郎さんが語ることもそれは「ツチノコっていうのがいるらしい」というのとほぼ変わらない。
なぜなら本当の意味でわからないからだ。
彼らの苦悩や欲や喜びを意味する体験が森田に無いので、彼らの言葉を聞いて想像はできても、「ただ想像できるだけ」だ。
他人のそういう言葉を森田は好きで沢山集めてきたが、今の自分には無駄だとすら思う。

じゃあ、どうすればいいんだろうか?
自分が宿る体験をするのならそれは「ライスワーク」になるだろう。
食うため、生きるために為すべきことが沢山あるということを、森田は結婚してベビ様が生まれて改めて思い知らせれながら日々を過ごしている。
そしてそんな経験から生まれるものはやっぱり森田の身体に馴染んでいる、宿っている感じがするのだ。ことばで表現するのが難しい。

ダ・ヴィンチや山口一郎さんのような「ライフワーク」ではなくても、「ライスワーク」でも一所懸命にした行いには、森田も自身の「生」が宿るのではないか?と思う。


森田は必ず自身の「ライフワーク」を見つける、そしてそれを体現できる人間になりたいと思う。種のようなものはあるが、恥ずかしいのでまだ言わない、大切に自分のペースで育てていこうと思う。

それよりも今すべきは目の前のことである。
肉感のある日々を生きることである。
生きるため食うためのことをして、妻と子ども、家族や友人を大切にすること。
そうしていれば、いつかきっとそれらが「ライフワーク」へ導いてくれるだろう。

自分に与えられた「ライスワーク」を精一杯やることが「ライフワーク」につながると、今の森田はそう思う、というお話でした。


おわり